新卒社会人の日記 オザケンがしみる

仕事でミスをして、15枚セットの書類150部(合計2250枚)全ての中の紙一枚を差し替えることとなった。新たに紙を150枚刷った。

親切な先輩社員の人たちに手伝ってもらっていたが、かなり申し訳なくて
吐きそうだった。
新卒で会社に入り、3か月目を迎えた。私の頭の中はこんがらがっている。大学や大学院時代のことが遠い国での遠い遠い過去の出来事のように思える。戦争が起きる前はね、この国は美しかったんだよ。みたいなレベルに近い。(体験したことがないし不謹慎な比喩かもしれない)

高等教育で学んだ、というか親の金で学ばせてもらえたことについては、全てが私にとって貴重な知であり学問で、今仕事に役に立っていないじゃないか、とかいう気持ちは起きない。私の根幹にかかわる部分に染みこんだものの捉え方とかは明らかに無駄ではない。しかし、それでも、あまりにも社会は混沌としており、大学とか大学院の研究室で流れる空気とはあまりにも違っていたと、しかし実際に会社に入ってみて、実感したのである。


仕事場という空間は極めて特殊で、”日本的”とか閉鎖的とでもいえばいいのだろうか、ハイコンテクストなルールや暗黙の了解であることが非常に多く、
どのように自分の言葉を述べたらいいのかかなり難しい。自分の心に正直でいたいのにそんな感情は胸にしまいこんでおかなくてはならない。
なぜなら自分の心に正直になるとすれば私は今すぐ会社を辞めるかして旅に出ることしかしたくないからである。そうして私は金がなくなって人生に困る。社会的な評判を気にして困る。つまらない理由だが、そうである。人生に困ることは避けたいから仕事をしている。虚無である。
仕事はしたくないし、会社の組織のことなどどうでもいい。それでも我慢して働くことが「社会人」として偉い、らしい。

自分が思っている自分のことや、自分がこれまで行ってきたことを正直に述べると浮くから、なんとなく最大公約数的な、無難な言葉を会社での雑談では
選ぶようにして話している。まあ会話というのは多かれ少なかれそういうものなのかもしれないが、それにしても今までの感情の起伏がどこかに行ってしまった。
今まで、私はどんな風に、言葉を綴り、友人と話し、そして考え、論文を書いたりしてきたのだろうか。それは就職活動の履歴書を書く段階で、始まって
いた。思ってもいないことをなんとなく相手が喜びそうな言い回しで、流通している言葉で書いてみる。それが履歴書の自己PRだった。
早く終わればいいと思っていたら、そんなの非じゃないくらいの別の何かが4月から始まった。自分でもいまなにを話しているのか訳が分からない。
とりあえず自分の言葉を紡ぎ出さないと私は死ぬかもしれないと漠然と思ったので書いているだけである。
労働は思考力を奪う。なんのために生きるのかわからない。オザケンが泣くほど沁みる。祈るように書く。書くために生きる。