かぼちゃの煮物 日記

 

 

 

腱鞘炎がなかなか治らず仕事も捗らない。が、幸い繁忙期ではないので少し残業して、人の残るオフィスをそそくさと後にした。

好きな人が他の同僚や後輩と楽しそうに話すのを胸をきりきりさせながら横目で感じて、そして悲しみに暮れ、それを何もなかったようにふるまうことに疲れ果ててしまった。

もちろん向こうはそんなことつゆ知らず、そしてわたしも、あの人とどうにかなりたいとも思わない。ただ、強く惹かれてしまう、そしてそれは業務の遂行の場では適切ではない。

 


この果てしなく思える自粛というミッションを、しばらくは、仕事を回すことで気を紛らわしていた。

 


けれど、腱鞘炎になって、がむしゃらに仕事をやろうとしても全然自分にとってそれは良くないことだと気づいた。

いくつかブレイクスルーがあると、やっぱり今の仕事は今の仕事であり、それ以上でもそれ以下でもなく、わたしは強い感情を押さえ込むのではなく、それをどうにか活かすかたちでやっていかないと、いつか取り返しがつかないのではないかと薄々思う。

 


帰宅して、家族が実家で作ってくれたかぼちゃの煮物を食べようとしたらすえていた。あまりにも多く持たせてくれたから食べきれなかったのだ。

なんか家族の暗喩そのものだなと思いながらかぼちゃの煮物をゴミ箱に捨てた。

 


家族や友人は大切だ。今は家族と職場の人にしか会っていない。なかなか友人とも話せていない。

 


家族はわたしを助けてくれるし、職場の人は優しい。職場にとりあえず行けば仕事があり、お金がもらえる。でも家族も職場も救ってくれないことがある。

平たくいえば、勉強したり本を読んだり書くことでしか救われないことがある。

しばらく図書館に行っていない。

Amazonから頼んでいた洋書が届いた。イギリスから遥々来てくれた。

しばらく出かけていない。新しい景色を見ておらず、友達や新しい人とも会っていない。

過去の記憶を持て余している。

高校の廊下や、大学の図書館、あ、

図書館に行きたい。こんなにも長い期間、図書館に行っていないなんて。

あの人に、わたしが好きなものの話をしてあの人の好きなものの話を聞きたいけど

いつもうまく言葉が出てこなくて、わたしは怖くなる。

あの人と話すときも、何かを書こうとするときも同じだ。強い気持ちがあっても、それを表現できるほどの余力がない。救われたいし、理解したいし理解されたい。

 

塩原温泉郷の旅館のことと、go to キャンペーンのこと:日記

コロナ禍で不安な日々が続くが、私はどうやら腱鞘炎になってしまったようだ。
左手首がじんじんと痛む。それはもうハンパない痛みだ。痛みのことしか考えられず、キレ散らかしそうになった。もしかしてスーパーとかで店員や客に理由もなく怒っている人というのは、体のどこかがひどく傷んだり、老いてゆく身体に耐えられないとかなのかもしれない。

などと考えながら風呂に入って痛みをとろうとしているとき、私はふと那須塩原の小さい旅館の事を思い出した。

その旅館は栃木県の塩原温泉郷にあり、温泉街の中にひっそりと佇んでいる。旅館の名は橋本屋と言う。

 

○川沿いの小さな旅館

私の祖父は私が3歳の頃に亡くなったが、祖父が生前の頃から、夏や冬の行楽シーズンにはよくその旅館を御用達で利用していた。

とても小さい旅館で、来る客も顔なじみばかりだったので、私たちが宿泊するその日にはあたしたちの苗字が書初めのように、筆で、入り口にデカデカと書かれていた。
その旅館は、大きなホテルグループとかではなく、個人経営のひっそりとしたものだった。
いつも奥さんと旦那さんが出迎えてくれた。

旅館に着くと、チェックインをして、あのお決まりの、白い立体の長方形が着いた鍵を渡され、部屋に向かった。

部屋はもちろん畳敷きで、 茶色い長テーブルの上にはお茶とお菓子が置いてある。お菓子は、塩原で有名な、絹の清流という、薄くてしっとりとした皮にあんこが挟まっているお菓子だ。私はこれが大好きだ。今も好きである。おすすめする。

昔ながらのゲームコーナーには、わにわにパニックとか卓球台とかがあった。

温泉はと言うととてもこじんまりとしていて、露天風呂があった。旅館そのものが、大きな川に面していて、滞在中はずっと、ゴーゴーと川の流れの音が私たちを圧倒してきた。

 


〇露天風呂とたぬき

露天風呂のお湯が出てくるところは、たぬきの装飾が施してあって、お腹が丸々と太ったタヌキの急所から湯が出てきている。子供ながらに私はそれが愉快で、滞在するたびにいつも祖母にその話をした。タヌキはまるで、ひょっとこのような顔をして、いつもそこに佇んでいた。

食事は一体どこで食べたのか、部屋なのか食堂なのか、今ではもう覚えていない。が、手作りの和食だった。

朝ごはんには、そう、白いご飯、味噌汁、海苔、厚焼き卵、納豆、野菜の和え物、そういうものが小さい器にこじんまりと行儀よく並んでいるような。
そしてそれらはどこかの業者に頼んだのではなく、おそらく旅館の人達が作ったのだろうと思われるような、そういうものだった。

 


〇旅館の今
私たちがよく滞在していた頃から随分と時間が経った。何年か前に私は思い立って Google でその宿を検索してみた。その宿はもう「営業停止」という文字が書いてあった気がするが、それ以上はなんだか怖くて検索することができなかった。

このコロナ禍で、そういう小さくて寂れたけれども、家族で細々と経営してきた宿が、いったいどれだけ店を畳んだことだろう。そういうことに思いを馳せると、とてつもなく寂しい気持ちになる。寂しい気持ちになるだけで私はどうすることもできないのだが。

 


〇go toなんとかのこと

 

そして go to トラベルキャンペーンとか、よくわからない、ただそこに関わった大きい会社が私たちの税金をぶんどって、中抜きされて、そして終わるのであろう、みたいなことしかよくわからない、そういうものに悲しくも憤慨することしかできないのだが。


そういうキャンペーンが、上記のような宿や小さな店たちを救いうるのかと言われれば、そこには甚だ大きな疑問がつきまとうだけだ。

もうあの宿に家族で行くことはできないかもしれない。それだけがただ悲しい。

宿泊している時、夜寝ている時でさえも、川の濁流の音が轟き渡っていた。きっと今も、あの旅館がどうなったのかわからなくても、あの音だけは響き渡っているだろう。

うるさくて眠れないくらいだったけど、あの川が穏やかに、今の塩原温泉郷に流れていることを私は祈っている。

 

もしも誰か塩原温泉郷の橋本屋という旅館のことについて詳しく知っている人がいたら、是非教えていただきたいと思います。

そして、腱鞘炎は辛いので皆さん気をつけて下さい。

 

 

※この記事は同内容をnoteにも掲載しています。

NoteID:castella_bitte

アカウント名:北山カオリ

 

はじめてのパリー バベルの塔

3日間ほど、実は初めてパリを訪れている。

これまでみたことないくらい、多種多様な人たちを見て、様々な言語を耳にした。

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サクレクール寺院へ向かう眺めの良い階段と、ターミナル駅やショッピングモールにもかかわらず故障し止まっているエスカレーターが一致して、話し続けるその人たちを乗せたまま、どんどん上へ上へと伸びて行く。それは急勾配の螺旋からやがて円状になり、まんなかには大きな空洞ができた。

 

まるでそれはバベルの塔のようだ。私はパリの街を朝から散策し、歩き疲れて痺れた足と、夢うつつの眠りの淵で、その伸び続ける階段の塔を見ている。

やがて私もまた、気づけばその塔にいて、真ん中の空洞を見ている。空洞には、散策中に見上げていた流麗なパリの旧市街が窮屈そうに、納められていた。

 

かと思えば、土産物屋でみた、10ユーロの小さな金色のエッフェル塔のスノードームのようでもある。

 


シャルルドゴールとオルリーからの飛行機が描く、快晴の青空に引かれた線のようなひこうき雲も、眼下に見下ろせるほど、塔はどんどん大きくなった。

やがてその塔でそれぞれ話される言語は、アコーディオンの音や、観光地で小金を稼ぐために歌を歌う人の声とまざり、ノイズのようにわんわんと響き始めた。

 

それはやがて音叉のように耳の中で共鳴し始め、誰もが誰かの声を聞き、理解できるような予感がし始めた。

 

そこには1つの共通言語が生まれ始めていた。それと同時に、塔はゆらゆらと揺れ始め、なだらかに地上へと沈んで行く。

私たちは、共通言語と耳の奥の共鳴に気を取られ、塔が沈む音も、その沈む音に気づいたなにかの囁きにも、気付かない。その先はわからない。そろそろ寝ないと明日の飛行機に間に合わない。

 

 

 

今年の2月にはじめてパリに行った時、私ははじめて見る景色に圧倒され、頭の中がごちゃごちゃだった。多様な人たち、色とりどりの服、さまざまな言語、それらを全身で感じとり、私はいつしかバベルの塔を、そんなに詳しくも知らないのに、頭に思い浮かべていました。そんな日記です。

そしてあのときはまだ、ノートルダム大聖堂はどっしりとそこにあり、夕日を浴びて正々堂々と佇んでいました。

 

 

 

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最近はまっているアイルランドの歌手と、読んだ本『勝手にふるえてろ』(綿矢りさ作) のこと

最近はまっている歌手と読んだ本のことを書く。

 

◇とにかく幸せそうに歌うところが好き

最近youtubeではまっている歌手がいる。アイルランド出身歌手のOrla Gartlandさん。

youtubeチャンネル: https://www.youtube.com/user/MusicMaaad )

ギターを片手にアコースティックな演奏をする。彼女のオリジナルな曲のときもあるし、カバーのときもある。けっこう昔の渋い曲をカバーしているので、ああ、少し熟練した歌手なのだろうな…とか思っていたらなんと1995年生まれ…!!!!年下ではないか!!!と、それは腰を抜かすほどの衝撃であった。

年齢はただの数字ではあるがしかし、彼女の表現力の安定感とカバー曲の完成度の高さを考えたとき、年下であることにひどく驚いてしまった。

彼女のビデオを見ていて思うことは、彼女が本当に楽しそうに演奏をしていることである。それはもう、歌がうまいんだなとか、プロなんだなとか、そんなレベルの印象ではない。生きる喜びそのものが、彼女にとっては歌なのだ、ということが映像から滲み出てくる。少なくとも私にはそう見える。特に個人的に好きで、おすすめしたい動画は、Fleetwood macの1987年の代表曲のひとつ、”everywhere”を、森の中でカバーしているところである。

 

https://youtu.be/UPbeGd-GszA

 

 

水の流れる音や森の音を背景にして、実に開放的にのびやかに歌う彼女に一瞬でとりこになる。そして、音楽でもなんでも、自分が愛する何かをしているときの人の姿は特に美しいのだと強く気づかされる。それをたしかめるためにくりかえし再生してしまう。とにかく幸せそうに歌う姿がまぶしすぎる。

彼女のただただ歌う姿は、生き方に悩む人の目の前にぶらさげられるあらゆる類の啓発書や理屈を押しのけ、ただ単純に癒してくれるし、大切にしたい感情ってこれだったよね、と感じさせてくれる。

 

 

 

◇最近読んだ本『勝手にふるえてろ

綿矢りさの代表作。私はなぜ今までこれを読まなかったのかと悔やまれる。でも叶わない片思いをしていたときにこれを読んでいたらけっこうきついかもしれないとも思った。

◇あらすじ
ヨシカは、中学から片思いしている一と、会社の同僚で、ヨシカに好意を寄せるニのあいだで揺れ動く。彼女は自分が処女であることをコンプレックスに思っている。片思いのイチの誇大妄想を常に脳内で繰り広げる。いわゆる「こじらせた」女子である。アンモナイトが好きで、経理の仕事をしている。とにかくイチのことが好き。けれども、ニと接する中で、イチカの心は変化する。

 


「初めて付き合うのは好きな人って決めてた。自分に嘘をつきたくないし、逆に好きじゃなきゃ付き合えないし。(中略)初恋の人をいまだに思っている自分が好きだった。でもいまニを前にして、その考えが純情どころかうす汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。どうして自分を好きになってくれた人には目もくれない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて。ただ勝手なだけだ。」(本書より引用)

彼女の頭の中のみで進行していた一との恋愛、というか妄想の世界が、だんだん薄くなってゆく。

彼女は二のきもちを受け入れようとする中で、相手の好意を受け入れることは「あきらめの漂う感情とは違う」のであり、「自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。」と強く宣戦布告する。それは自分への挑戦なのだ。

本作の中のあらゆる比喩表現(処女を喪失することについての比喩とか、ニがキスしようとしたときの発情している雰囲気の比喩とか)も見事だけれど、この文を読むためだけにこの物語を読み進めてもいい。

ヨシカのこじらせっぷり、自分が恋愛経験がないがゆえに悪戦苦闘して、会社の人にも「そこまでする?」と思う嘘(ネタバレになるので内容はぜひ本編を)をついてしまうところとか、ああ、その気持ちはとても分かるよ、そこまではしないけど…と思ったりした。

不安定でぶわんぶわんと気持ちは揺れ動くけれど、けして折れはしない弾力さみたいな感情をもつヨシカの描き方が秀逸、やっぱり綿矢りさすごい。

 

参考:『勝手にふるえてろ綿矢りさ、2012年、文藝春秋

 

20190926 秋の空気は感傷を誘う

朝から胸いっぱいの秋の空気を吸い込む。そうしてなぜか、大学生だったときの、家から大学までの道の映像が頭に浮かぶ。綺麗な大学の建物と、たくさんの団地と、高架の電車と、いくつかのごちゃごちゃした飲食店と、松の並木に見守られた川と、それに混ざって私の住むアパートがあった。大好きで憧れている人と、偶然スーパーで会えることばかりを期待しながら、ドイツ語とか卒論のこととかを考えながら、持ち手が薄汚れたトートバッグに図書館で借りたたくさんの文献を目いっぱい詰め込んで、今日のようなからりとした日に、秋の夕暮れの空気を吸い込みながら歩いた。

授業が終わって買い物をしながら、帳の降りているなかを帰宅するとき、学生生活はずっとは続かないこと、憧れの人みたいになりたいけれど、それはどうやら難しそうなことなどを頭の片隅でうっすらと思いながら、それらをまとめて寂しいという感情として処理しようとしていた。実際に私は寂しかったのかもしれない。

秋になると松任谷由実の「りんごのにおいと風の国」を必ず聴きたくなる。とても淋しい曲だけれど、オリーブ少女になりたかったみたいな自分のおセンチな気持ちを加速させてくれるから、好きだ。

楽しかったけれど寂しかった記憶はいくつかあり、けれどそれは居心地が悪いものでもない。

ユーミンのライブに行くために、たまたま手に入ったチケットをリュックに入れ、東京駅から1人で新幹線に乗り、冬のスキー場に1人で行ったことをお風呂で思い出す。

東京駅の新幹線乗り場には、平日のせいか、珍しくほとんど誰もいなかった。とても静かで、新幹線のブレーキと発車のときの乗り物の音がそこには響いた。

会社にいるとずっと人といるから、自分のおセンチさを忘れることができる、或いは、そのような気持ちはやがて薄れて行くのかな、とか考えてる時点で薄れてはいない気がする。

新卒社会人の日記 オザケンがしみる

仕事でミスをして、15枚セットの書類150部(合計2250枚)全ての中の紙一枚を差し替えることとなった。新たに紙を150枚刷った。

親切な先輩社員の人たちに手伝ってもらっていたが、かなり申し訳なくて
吐きそうだった。
新卒で会社に入り、3か月目を迎えた。私の頭の中はこんがらがっている。大学や大学院時代のことが遠い国での遠い遠い過去の出来事のように思える。戦争が起きる前はね、この国は美しかったんだよ。みたいなレベルに近い。(体験したことがないし不謹慎な比喩かもしれない)

高等教育で学んだ、というか親の金で学ばせてもらえたことについては、全てが私にとって貴重な知であり学問で、今仕事に役に立っていないじゃないか、とかいう気持ちは起きない。私の根幹にかかわる部分に染みこんだものの捉え方とかは明らかに無駄ではない。しかし、それでも、あまりにも社会は混沌としており、大学とか大学院の研究室で流れる空気とはあまりにも違っていたと、しかし実際に会社に入ってみて、実感したのである。


仕事場という空間は極めて特殊で、”日本的”とか閉鎖的とでもいえばいいのだろうか、ハイコンテクストなルールや暗黙の了解であることが非常に多く、
どのように自分の言葉を述べたらいいのかかなり難しい。自分の心に正直でいたいのにそんな感情は胸にしまいこんでおかなくてはならない。
なぜなら自分の心に正直になるとすれば私は今すぐ会社を辞めるかして旅に出ることしかしたくないからである。そうして私は金がなくなって人生に困る。社会的な評判を気にして困る。つまらない理由だが、そうである。人生に困ることは避けたいから仕事をしている。虚無である。
仕事はしたくないし、会社の組織のことなどどうでもいい。それでも我慢して働くことが「社会人」として偉い、らしい。

自分が思っている自分のことや、自分がこれまで行ってきたことを正直に述べると浮くから、なんとなく最大公約数的な、無難な言葉を会社での雑談では
選ぶようにして話している。まあ会話というのは多かれ少なかれそういうものなのかもしれないが、それにしても今までの感情の起伏がどこかに行ってしまった。
今まで、私はどんな風に、言葉を綴り、友人と話し、そして考え、論文を書いたりしてきたのだろうか。それは就職活動の履歴書を書く段階で、始まって
いた。思ってもいないことをなんとなく相手が喜びそうな言い回しで、流通している言葉で書いてみる。それが履歴書の自己PRだった。
早く終わればいいと思っていたら、そんなの非じゃないくらいの別の何かが4月から始まった。自分でもいまなにを話しているのか訳が分からない。
とりあえず自分の言葉を紡ぎ出さないと私は死ぬかもしれないと漠然と思ったので書いているだけである。
労働は思考力を奪う。なんのために生きるのかわからない。オザケンが泣くほど沁みる。祈るように書く。書くために生きる。

オリーブ少女になりたい人生だった。

オリーブ少女になりたい人生だった。

オリーブという雑誌に憧れがある。あの、脱性化されフランスやイギリスの白人のモデルたちがガーリーな服を着て森でピクニックしているような、あの雑誌である。

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あの雑誌を、都内のキリスト教系私立女子中高一貫高校に通いながら読み、そしてそのまま付属の私大にあがり、冬はスキーに行き、夏は湘南の海に行き、サークルに入り、『あすなろ白書』のような恋愛をし、『就職戦線異状なし』のような就活をし、バブルを謳歌する人生を送りたかったと本気で思う。(大変にひどいステレオタイプだが本気で体験してみたい。)

 

しかし、あの時代に生まれていたら、会社では間違いなく寿退社が望まれるだろうし、セクハラされ放題なんだろうな、などとも思った。昇進もできないし、「女なんか~」「男なんだろう、男ならば~」という言葉をきっと今よりたくさんかけられるのだろうし、分煙も進んでいないのだろうし、ポリコレなどという概念は少なくとも日本には(おそらく)なく、お酌をするのもサラダを取り分けるのも女性の役割だったんだろうと思う。Metooというハッシュタグをつけて発信しようにも、むろん、SNSなどというものもない。

そう考えると絶望的である。しかし現状を見てみても、いったいどれくらいそういう状況が好転しているのだろう。

 

しかしそれでも、「(経済的に)豊かな時代」というものがどういうものか、体験してみたかったと思う。それがどのくらい大きなもので、それは傾向として全国的なものだったのか。(関東の片田舎に住む両親いわく、バブルの恩恵はそこまでではなかったらしいのだが)

実家には、父親が若い時に買った古い大仰なステレオや、ユーミンの雑誌、レコード、手書きの丸文字で曲が書かれ、A面とB面に順番に曲が入っているカセットテープなどが山のようにあった。それらを子供ながらにあさりつつ、自分がまだこの世に存在しないときの、両親や父親のきょうだいの人たちの若い時代を想像した。

 

松任谷由実を好きになってから、芋づる式に当時の社会情勢や、特にバブルという時代について、調べたり両親に聞いたり、さながら調査のようなことを趣味の延長で行うようになった。酒井順子を読んでみたり、ホイチョイ三部作や薬師丸ひろ子が出演するカドカワ作品を見てみたり、当時のCMを見てみたりもした。高校時代から、両親たちが過ごしてきた若い時代を追体験するようなことを、インターネットを駆使して、行っていた。

 

やはりぼんやりと思うのは、豊かな時代を実際に過ごしてきた人たちとそうでない世代には大きな断絶があるんだろうな、ということだった。経済的に厳しい状況と就職難が続けば、車などのぜいたく品は買いにくくなるだろうし、恋愛をすることも、コスパを考えるようになる。より慎重にならざるを得ないのはその通りだと思う。

 

私もスキー場で無線でやりとりしながら「席、確保したよっ」とか言いたかった。私はこれからもバブルの時代だのオリーブ少女だのにあこがれ続けながら年を重ねていくのだろうと思う。

それはともすると、万博や五輪を再度行い、あのころの日本を懐古する、どうしようもない老害政治家たちと類似した思考回路があるのかもしれない、と気づきぞっとする。

私は「あのころ」をまったく知らないが、豊かさへの強い切望と、今の現状への絶望があるのである。

 

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