オリーブ少女になりたい人生だった。

オリーブ少女になりたい人生だった。

オリーブという雑誌に憧れがある。あの、脱性化されフランスやイギリスの白人のモデルたちがガーリーな服を着て森でピクニックしているような、あの雑誌である。

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あの雑誌を、都内のキリスト教系私立女子中高一貫高校に通いながら読み、そしてそのまま付属の私大にあがり、冬はスキーに行き、夏は湘南の海に行き、サークルに入り、『あすなろ白書』のような恋愛をし、『就職戦線異状なし』のような就活をし、バブルを謳歌する人生を送りたかったと本気で思う。(大変にひどいステレオタイプだが本気で体験してみたい。)

 

しかし、あの時代に生まれていたら、会社では間違いなく寿退社が望まれるだろうし、セクハラされ放題なんだろうな、などとも思った。昇進もできないし、「女なんか~」「男なんだろう、男ならば~」という言葉をきっと今よりたくさんかけられるのだろうし、分煙も進んでいないのだろうし、ポリコレなどという概念は少なくとも日本には(おそらく)なく、お酌をするのもサラダを取り分けるのも女性の役割だったんだろうと思う。Metooというハッシュタグをつけて発信しようにも、むろん、SNSなどというものもない。

そう考えると絶望的である。しかし現状を見てみても、いったいどれくらいそういう状況が好転しているのだろう。

 

しかしそれでも、「(経済的に)豊かな時代」というものがどういうものか、体験してみたかったと思う。それがどのくらい大きなもので、それは傾向として全国的なものだったのか。(関東の片田舎に住む両親いわく、バブルの恩恵はそこまでではなかったらしいのだが)

実家には、父親が若い時に買った古い大仰なステレオや、ユーミンの雑誌、レコード、手書きの丸文字で曲が書かれ、A面とB面に順番に曲が入っているカセットテープなどが山のようにあった。それらを子供ながらにあさりつつ、自分がまだこの世に存在しないときの、両親や父親のきょうだいの人たちの若い時代を想像した。

 

松任谷由実を好きになってから、芋づる式に当時の社会情勢や、特にバブルという時代について、調べたり両親に聞いたり、さながら調査のようなことを趣味の延長で行うようになった。酒井順子を読んでみたり、ホイチョイ三部作や薬師丸ひろ子が出演するカドカワ作品を見てみたり、当時のCMを見てみたりもした。高校時代から、両親たちが過ごしてきた若い時代を追体験するようなことを、インターネットを駆使して、行っていた。

 

やはりぼんやりと思うのは、豊かな時代を実際に過ごしてきた人たちとそうでない世代には大きな断絶があるんだろうな、ということだった。経済的に厳しい状況と就職難が続けば、車などのぜいたく品は買いにくくなるだろうし、恋愛をすることも、コスパを考えるようになる。より慎重にならざるを得ないのはその通りだと思う。

 

私もスキー場で無線でやりとりしながら「席、確保したよっ」とか言いたかった。私はこれからもバブルの時代だのオリーブ少女だのにあこがれ続けながら年を重ねていくのだろうと思う。

それはともすると、万博や五輪を再度行い、あのころの日本を懐古する、どうしようもない老害政治家たちと類似した思考回路があるのかもしれない、と気づきぞっとする。

私は「あのころ」をまったく知らないが、豊かさへの強い切望と、今の現状への絶望があるのである。

 

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