はじめてのパリー バベルの塔

3日間ほど、実は初めてパリを訪れている。

これまでみたことないくらい、多種多様な人たちを見て、様々な言語を耳にした。

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サクレクール寺院へ向かう眺めの良い階段と、ターミナル駅やショッピングモールにもかかわらず故障し止まっているエスカレーターが一致して、話し続けるその人たちを乗せたまま、どんどん上へ上へと伸びて行く。それは急勾配の螺旋からやがて円状になり、まんなかには大きな空洞ができた。

 

まるでそれはバベルの塔のようだ。私はパリの街を朝から散策し、歩き疲れて痺れた足と、夢うつつの眠りの淵で、その伸び続ける階段の塔を見ている。

やがて私もまた、気づけばその塔にいて、真ん中の空洞を見ている。空洞には、散策中に見上げていた流麗なパリの旧市街が窮屈そうに、納められていた。

 

かと思えば、土産物屋でみた、10ユーロの小さな金色のエッフェル塔のスノードームのようでもある。

 


シャルルドゴールとオルリーからの飛行機が描く、快晴の青空に引かれた線のようなひこうき雲も、眼下に見下ろせるほど、塔はどんどん大きくなった。

やがてその塔でそれぞれ話される言語は、アコーディオンの音や、観光地で小金を稼ぐために歌を歌う人の声とまざり、ノイズのようにわんわんと響き始めた。

 

それはやがて音叉のように耳の中で共鳴し始め、誰もが誰かの声を聞き、理解できるような予感がし始めた。

 

そこには1つの共通言語が生まれ始めていた。それと同時に、塔はゆらゆらと揺れ始め、なだらかに地上へと沈んで行く。

私たちは、共通言語と耳の奥の共鳴に気を取られ、塔が沈む音も、その沈む音に気づいたなにかの囁きにも、気付かない。その先はわからない。そろそろ寝ないと明日の飛行機に間に合わない。

 

 

 

今年の2月にはじめてパリに行った時、私ははじめて見る景色に圧倒され、頭の中がごちゃごちゃだった。多様な人たち、色とりどりの服、さまざまな言語、それらを全身で感じとり、私はいつしかバベルの塔を、そんなに詳しくも知らないのに、頭に思い浮かべていました。そんな日記です。

そしてあのときはまだ、ノートルダム大聖堂はどっしりとそこにあり、夕日を浴びて正々堂々と佇んでいました。

 

 

 

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